1926年。15歳のロイ・ア クンは、木製のスーツケースを握りしめ、出港を待つ海南島発シンガポール行きの古い帆船に必死の思いで乗り込むことが出来た。それは南シナ海での無限の旅のように思えたが、希望と不安を乗せた古い帆船は、長旅の末、無事にシンガポールに入港し、土を踏みしめることができた。しかし、その時大きな不安が彼の頭の中で渦巻いた。親類縁者、知り合いもいない。これからどうすればいいのか… 彼は自然に地元の海南人コミュニティに引き寄せられ、コミュニティーの紹介で海南コーヒーストールでアシスタントとして働くこととなった。
(ストールとは小さな仕切りになった小部屋)
迅速かつ機敏な行動と心で、ア クンは商売の秘訣を素早く理解し、やがて、彼はカーキ色のショートパンツのポケットから幸せな鈴の音を聞くことができた。それはア クン自身を喜ばせる以上に彼の起業家精神を目覚めさせてくれた。その後、ア クンは2人の中国人移民と協力し、テロク・アヤー・バシンでコーヒーストールを始めることとなった。
しかしその後パートナーは、他の場所で商売を始めた。彼は考えた末、誰からの援助もなしで自分自身でやっていくことを決意した。
決意を固めた若いア クンは、パートナーなしでいつもどおり仕事に熱中し続けた。コーヒー、紅茶、卵そしてトースト 。ア クンはそれらすべてを、多くの人々に提供し続けた。日雇い労働者、商人、金貸し、警察の検査官、船のオペレーター、すべての人々が彼のパイピングホットコーヒーをズルズル音を立ててすすり、むしゃむしゃと炭焼きトーストを食べた。
ア クンは客を魅了し続けた。
1936年。ア クンは中国へ一時帰国しているときに結婚。彼の妻はシンガポールへ共に渡り、夫と一緒に働き、自家製のカヤ(地元の卵とココナッツを使い)をトーストに合わせて食べる料理を完成させた。
柔軟性に富んだア クンは独自の方法でコーヒー焙煎を開始した。コーヒー豆を買い、「プランタ」マーガリンと砂糖を加え、このストールの後ろで薪の上でこれらを焙煎した。
しかし、ア クンのサービス精神には犠牲が伴った。家はちょうど道路の向かいにある長屋で、15-Bクロスストリートであった。ア クンは午前5時に最初の客に時間通りにサービスを提供するため、ストールの硬い木製のカウンターで寝て夜を過ごすことを選んだ。そして、客が大声で注文を終えると、チョークを手にしたア クンが、寝ていたのと同じ硬い木製のカウンターに猛烈な勢いで客の注文を書き込む。激怒した客は彼を床に倒すこともなく、穏やかな笑顔と肩をすくめて彼は仕事をし続けた。食べ物以上に親切も提供し続けた。ア クンは何か欲しい人たちには、無償で提供し、日刊紙を読みたい人には回覧し、常連の人たちには、支払いものばしてあげた。
テロク・アヤー・バシンで15年以上営業したのち、ア クンは通りの向こう側のラオパサに店を移転した。
その後、ストールは単にヤ クンコーヒーストールと呼ばれた。「ヤ クン」という名前は「ア クン」に相当する中国発音となり、店はさらに15年間ラオパサに残り、その間「ラオパサで最も礼儀正しいストール」賞を受賞した。
1984年、ラオパサ改装のため、道を隔てたテロク・アヤー・トランジットフードマーケットに戻り、そしてついに1998年、ヤ クンカヤトーストコーヒーストールはファーイーストスクエアー、現在の場所に落ち着き、現在は子供たちによって完全に運営管理されている。